次世代の黒マルチ
二○世紀に入り、第二次大戦後の時代を迎えても、多国籍企業は多国籍企業であり、グローバル企業における基本的な対時の構図も変わってしまった。
もはや、「立て、万国の労働者」の呼びかけが通用しなくなり、労働者たちは団結出来ない。
グローバル時代においては、地球の向こう側の労働者によって、こちら側の労働者が雇用機会を奪われる。
そしてまた、正規一雇用対非正規一雇用という対立関係が生まれる。
グローバル競争に打ち勝とうとする企業たちが人を選別し、可能な限り低コストで人材を使おうとするからである。
また、資本は無国籍化するだけではなくて、その成り立ちも変えた。
一二世紀型資本主義の世界には、疑似資本家が存在する。
その名は投資ファンドである。
それ自身が資本家であるわけではない。
本源的な資本家たちからカネを集めて、資本家のごとき位置づけを手に入れる。
だから、疑似資本家である。
投資ファンドという名の疑似資本家は、また疑似経営者でもある。
みずから経営責任を負うわけではない。
だが、経営の有り方について、いわゆる「物言う資本家」の立場からあれこれ指図する。
このような形で資本の成り立ちが変わり、一方で労働については「内対外」、あるいは「正規対非正規」の対時の構図が形成されてきている中で、グローバル恐慌が起こるとどうなるか。
まずは、経済社会的な痛みがひときわ大きくなる恐れがある。
なぜなら、資本が無国籍化した二一世紀型資本主義の下においては、突出して強い経済力が一つの国民国家に集中することはないと考えるべきではないだろうか。
基軸通貨なき時代の通貨体制とはどのようなものか。
私は、その軸が「地域通貨」に三世紀型資本主義の下で、世界の通貨体制はどうなっていくであろうか。
円が「隠れ基軸通貨」として機能し始めているのではないか、という点について考えた。
そこに最終的な解答があるのだろうか。
恐らく、そうではないだろう。
グローバル時代に国際基軸通貨の概念は基本的になじまない。
他の追随を許さない圧倒的な力を持つ国民国家が存在して、初めて国際基軸通貨の概念が成り立つわけだが、グローバル時代とは、そもそも、そのような圧倒的強者の存在を許さない時代なのだと考えらの側における疑似資本家あるいは疑似経営者の存在が、従来にも増して一段と厳しい合理化要請につながると考えられるからだ。
これはすでに現実化している。
労働側においても、団結の基盤が崩れて一雇用機会の奪い合いが激化することが避けられないだろう。
二一世紀型資本主義には、このほかにも、まだまだ、特異な資質・体質があるはずだ。
それを見極めていく中でこそ、グローバル恐慌の本質もまたさらによくみえて来るはずである。
そしてまた、金融暴走の向こう側の世界についても、理解が深まっていくはずだ。
その理解が深まれば、次の恐慌に備えることも出来るだろう。
これで今回の旅は終わりである。
だが、この旅の終着点は、また新たな旅の出発点でもある。
その新たな旅の途上で、いずれまたお目にかかれることを楽しみにしている。
なるのではないかと考えている。
一二世紀型資本主義の世界が国民国家を軸とする世界でないのだとすれば、一方で通貨の面では国民通貨が軸になると考えるのは自家撞着である。
これまで国民国家の中に組み込まれていた地域経済・地域共同体それぞれに固有の地域通貨が主役になると考えられないだろうか。
例えば、九州が独自通貨をもつということだ。
一見すれば突飛な発想だが、三世紀型資本主義に二○世紀型の経済体制をあてはめようとするよりは、少なくとも先行きを展望する上で何らかの手がかりとなるのではないか。
独自の通貨を持つ地域共同体が経済活動の軸となれば、あるいは、モノとカネの健全な形での再結合への展望が開けるかもしれない。
次は一体何が起きるのか。
今、誰もがこの不安に駆られている。
重苦しい日々だ。
重苦しいが、同時に示唆に富んだ日々でもある。
最大の示唆は、経済活動というものがいかに人間的な営みであるか、ということである。
人間が恐怖し、狼狽する。
その結果として、あっという間に信用が収縮し、生産が止まり、人々が職を失う。
誰も誰かを意識的にいじめようとしているわけではない。
我が身がかわいいだけである。
その人間的な思いがパニックを世界に広める。
人間の弱さと手前勝手が恐慌をグローバル化させ、地球経済の傷口を深くする。
だが、人間は弱くて手前勝手なだけではない。
同時に、優しくて勇気に溢れてもいるはずだ。
そして知恵にも富んでいるはずだ。
今こそ、優しさと勇気と知恵をもって、弱さと手前勝手を克服すべき時だと思う。
そのための決め手は何か。
それは、何はともあれ、知ることであり、解明することである。
敵を知らないものに勝利はない。
我々を恐れ慌てざせているものは何なのか。
何がどうしてこうなったのか。
それを突き止めることなくして、我々は我々の弱さを乗り越えられず、局面打開の知恵も湧いてこない。
解明は不十分だ。
局面打開の決定的な知恵が湧いたともいえない。
だが、金融が暴走することの恐ろしさについてはよく解った。
金融が暴走したことによって、地球経済全体の回り方が狂ってしまった。
思えば、人間的な営みである経済活動の中でも、金融ほど人間的なものはない。
なぜなら、金融とは信用であるからだ。
信用供与とか、信用創造という言い方がある。
いずれも、要はヒトがヒトにカネを融通する行為を指している。
ヒトは相手を信用しているから、カネを貸す。
信用出来ない相手からはカネを借りない。
ヒトがヒトを信用しているから、そこに金融が生まれる。
そういう人間的な感覚が根底にあるからこそ、信用供与とか信用創造という言い方をするようになった。
そういうことであるはずだ。
だが、今回のグローバル恐慌に至る過程では、どうもこの関係に狂いが生じたように思う。
信用と無関係なところで金融が膨らむ。
この間の経緯の中で、そのような情景を我々は繰り返し目の当たりにして来たのではないだろうか。
ここの中で、モノとカネの決別問題を主要テーマとして取り上げた。
今、改めて考えれば、カネはモノと決別したばかりではない。
ヒトとも、たもとを分かつてしまった。
相手の顔がみえない。
相手が誰だか解らない。
したがって、信用するも何もない。
金融が信用でなくなった。
人間の営みである経済活動の中でも、金融は最も人間的な信用の緋で形づくられている。
そうであるはずだった金融の世界から、人間が消えた。
ここに、問題の本質があるのかもしれない。
最終場面に来て、そう思うに至った。
金融の世界から人間は消えた。
だが、人間の世界から金融が消えたわけではない。
ここが実に厄介なところだ。
むしろ、人間はかつてなく金融に依存するようになっている。
だからこそ、金融が破綻すると、その影響が即時的に経済活動のあらゆる側面に波及するのである。
消費も投資も生産も、全てが金融化の波に乗せられて膨張して来た。
信用の巨大なネットワークの存在を前提にしてこそ、人間の営みとしての経済活動はここまで地球的な広がりを持つようになってきたといっても過言ではない。
そのような実態があるにも関わらず、金融が人間とそのモノづくりという営みを置き去りにして一人歩きを始めてしまった。
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